フロイトの罪
フロイト以降、われわれは聞くとは、したがって話す(そして沈黙する)とはどう言う[意味する]ことかを洞察し始めている。すなわち、話すことと聞くことの「言おう=とすること」は、話し聞くという無邪気な姿の下に、無意識の語りの「言おう=とすること」といった二重底のはっきりした深部を露呈させる。現代言語学は、言語活動のメカニズムのなかで、この二重底の形式的な効果と条件を考察している。私はあえて言いたい、マルクス以降、われわれは、少なくとも理論上は読むこと、したがって書くことが何を意味するかを洞察し始めなくてはならなかったのだと。われわれが、『1894年の草稿』に上から君臨しており、『資本論』の歴史主義的誘惑をひそかに再発させかねないイデオロギー的主張のすべてを、読むという明快な無邪気さへ還元することができたのも、確かに偶然ではない。若きマルクスにとって、事物の本質、人間の歴史的世界の本質、その経済的・政治的・美的・宗教的生産物の本質を認識することは、「抽象的」本質がその「具体的」現実存在の透明性のなかに現前することを、まさに文字通り読み取ることだ。
(アルチュール『資本論を読む』序文 今村仁司訳)
このアルチュセールは、デリダに比べて実に理解しやすい文章だ。論旨明解、意図簡単、わかるぜどんどん、という感じ。アルチュセールはまさに明快すぎて、晩年晦渋さを増していくラカンと決別したのは必然だ。しかし、このようにしてフロイト的=ラカン的思考がフランスのマルクス主義に強い影響を与えてしまったことに対し、なんとなく申し訳ない気持ちになる。
アルチュセールは、オレの好きな思想家だけど、それは論理実証主義から少し離れた、しかしオカルトではない理論を記述してくれたからだ。科学的思考から少し外れた微妙な思考、つまり不可能を思考する思想は、人類にとって必要悪だ。だからヘーゲル、ハイデガーやフロイトが存在している。アルチュセールの主張の通り、哲学的「本質」の向こうが、言いかえると「読むこと」「書くこと」という実践の裏側が、「話すこと聞くこと/およびそれらの欲望」という「二重底」になっていることへの理解の重要性の強調がオレたちを愉快にさせる。それは享楽、かつ罪だ。
アルチュセール『資本論を読む』
2012-01-30 06:43
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