主体的に客観を捉える
カントが主体的な見方で、客観的な実在を捉える、という方法を主張したとき、最初オレたちは違和感を感じたはずだ。
どうして物自体を物自体として捉えることができないのか。
物理学など科学的にモノを捉える方法があるというのに、なぜモノそのものを捉えることができないのか、と。
その問いは、今流行り(??)の「思弁的実在論」(メイヤスー)とか「新実在論」(M・ガブリエル)の発想の根拠になっている。
・・・個人的には、その流行りの思想にさほど興味はない。
オレたちは間違いだらけの主観の見方によってのみモノを捉えるのであって、モノを正しく捉えることなんかできない。
いやむしろ間違っているとはいえ、モノを捉えていることですら奇跡的なことだ、と感じているくらいだ。
言葉の成り立ち
つまり言葉の成立条件として、背後にある言語的全体性(全体論)のようなものを想定しないと、意味の正しさを探り出すことはできない。
というか、そもそも意味の正しさなど必要ない、ということをどうやって理解するのか。
哲学は常に、このようなややこしさの中で言語を取り扱っている。