観念の話は堪忍してくれ その3
というわけで「言語なぜ」がオモシロい。
観念についてのオレたちの勘違いが、今まで大きな誤解を産んでいた恐れがある。
カントによる「視霊者の夢」がなぜ「形而上学」へとリンクするのか、なんとなく理解できてしまうのもイアン・ハッキングの功績かも入れない。
だいたいスウェーデンボリなどという魔術師をどう考えるかなんて、オレたち現代人から見ればカントの仕事ではなかったはずなんだが、形而上学的観念が「じっくり見ると見えてくる、明白過ぎて説明する必要がないもの」だとすると、視霊者の夢はさほど遠くない。
「言語なぜ」は素晴らしい。
観念の話は堪忍してくれ その2
というわけで「言語なぜ」がオモシロい。
観念についてのオレたちの勘違いが、今まで大きな誤解を産んでいた恐れがある。
その一つがドイツ観念論へのアプローチの仕方。
カントやヘーゲルで登場する観念や概念というモノが、言葉なんかでわかるもんじゃない・・・いやそれ以前に「じっくり見ると見えてくる明白過ぎて説明する必要などないもの」だ・・・的なモノだったとすると、ヘーゲルがナポレオンを見て「世界精神が通る」などとアホなことを言ったことも、なんとなく理解できてしまうではないか。
「言語なぜ」は素晴らしい。