マクダウェルの転向について
マクダウェルはもともと概念主義と経験主義の対立を解消することを目的としていたため、概念が命題的だろうが非命題的だろうがあまり気にしていなかったと思う。
言い換えると、非命題的な概念主義がどのようにして成立するかは、現実の言語ゲーム次第なのでなんとも言えないが、ともかくマクダウェルはさほど「転向=修正」へのこだわりは無いように思う。
村井論文の指摘にある、マクダウェルがカント直観概念を深く考え始めた理由はよくわからないが、少なくとも概念主義と経験主義の対立の忌避を、カントの純粋理性から実践理性への移行の中に見出そうという発想があったように、オレには見える。
とはいえ、マクダウェルによるカントの直観解釈が変わったことは、一つの事件として捉えられているのが興味深い。
セラーズの「色で考えること」(誤解を恐れずに言うなら絵画的芸術の捉え方)は特殊な言語ゲームと考えられるので、通常の言語ゲームと同等に扱ってよいものかどうかは判断が難しい。
この話はカントでいうと『判断力批判』に繋がっていきそうなので、これを直観的知覚の話として単独に取り上げられるのか否か。
だからこそ、敢えてそこに踏み込んでいる村井論文の意義がある、ということにして、この項を終了する。
マクダウェルの転向
メモ。
村井忠康『知覚と概念--セラーズ・マクダウェル・「描写」--』(2012)より。
(・・・)マクダウェルは最近になって、以前の命題主義的な概念主義を放棄し、非命題主義的な概念主義を唱え始めた。彼のこの転向の背景には、知覚にそもそも内容を--概念的であれ何であれ--認めないトラヴィスの過激な素朴実在論への譲歩が窺われるが、転向を促した主な要因は、『心と世界』以降彼がカント解釈に深くコミットする結果としての、カントの直観概念の再考だ。しかし、マクダウェル自身は直観と描出の関係に注意は払っておらず、そのため、彼の新たな概念主義には「非命題的」という消極的特徴づけ以上のものは与えられていないように思われる。