無とは何か
ハイデガーによると、有が無となる過程が「無」の本質で、その「無化」の過程を「無」と呼ぶ。
なので、無そのものというものがあるのではなく、ただ有が無になるか、あるいは有と有の間に隙間=無がある、という考え以外に無はない。
こう語ることでいったいハイデガーが何を意図しているのかというと、「無そのものは存在しない」ということから、無理に(あるいは無理なく)存在を取り出そうとしている。
要するに「無そのものは存在しない」から出発して、「しかしながら『無は存在する』と言うことは可能だ」へ至ることができる、ということを示している。
これはオレに言わせれば屁理屈だし、狂気の沙汰だ。
逆に言うと不可能を語るための手段を手に入れる、ということを意味する。
ちなみに、空集合から自然数を作っていくジョン・フォン・ノイマンの構成法が、上記によく似ているのは実に興味深い。
超越
ハイデガー的超越とは、要するに主観が客観へどのようにして接近するのか、を考えることだ。
もちろん「世界内存在」という発想で、既に「対象=世界=客観」と接しているわけで、「今さら何を言っているんだ」状態なんだが、ハイデガーは世界内存在の構造の中に「超越」という考え方が入っている・・・・と仮定したものと推測する。
ジジェク的ヘーゲル
ヘーゲルの哲学は、最終的に否定や狂気を乗り越えるというロジックだが、実のところは「否定や狂気とともに」乗り越えるというのが、ジジェク的ヘーゲルの本筋だ。
なので、「乗り越える」という表現は適切ではないだろう。
混沌こそわが墓碑銘
ラカンとデイヴィドソンをほぼ同時期に勉強する機会があった。
そこで、ハイデガーとクワインの類似性を発見した。
などという経験は、概ね基地外の出来事だと断定してよいものだが、残念なことに、それがパラノイア的だという自覚があり、しかも、パラノイアが発動する条件についての知見をもち、かつ、知識学的な系譜から経験主義を取り去ることの弊害を学んでしまったという障壁により、オレ自身を基地外と言い切るにはまだ論拠が薄い。
基地外になってしまったほうが楽だというのを経験的に知っているにもかかわらず、そうしないのは、正常という名の温さ、奇跡的な対外折衝能力(というより、運)に甘んじてきたことに慣れてしまったせいなのかもしれない。
反省すべきかするべきではないのか、判断が難しいところだ。
今まで木田元方面だけだったが、今後は別方面のハイデガーにも、触れていくべきだと思う。
また、どうやら精神分析方面からもしばらく抜けられないようだ。
とはいえ、しばらく精神分析や実存主義とは別方向をメインにしていく気持ちに変わりはない。
ドント・ギブ・アップ
ピーター・ガブリエルのドント・ギブ・アップはケイト・ブッシュとの共演という意味で有名な作品だが、オレにとって主役はベースだ。
てっきりスティックかと思いきや、ライブ映像で観ると四弦だったりして、ちょっとびっくりする。
とにもかくにもこの音は、オーディオチェックとして機能する。
いつ聴いても心に響くベースだ。
仕込終了
株式投資の話。
すっかり長期投資だけになってしまったが、ほぼ一年かけて予定通り仕込みを完了した。
長かったがやっと予定通りの数量となった。
単価も程よく、将来的な配当も期待しつつ・・・・。
ギャンブルだから当たるも八卦当たらぬも八卦。
整合説
整合(斉合)説というのは、なかなかオモシロい考え方だ。
特に「哲学としてそれていいのか」と思わせるところがナイスだ。
哲学史
いろんな哲学を知っておくと、あとで意外な人たちが繋がることが分かったりしてオモシロい。
ただ、哲学史そのものは非常につまらない。
純粋経験は経験できない
純粋経験は経験できない、と考えてみると、見えてくるモノと見えてこないモノがある。
より正確に言うならば、純粋経験を正確に叙述する言葉を見つけるのは不可能だ・・・となる。
マクダウェルの転向について
マクダウェルはもともと概念主義と経験主義の対立を解消することを目的としていたため、概念が命題的だろうが非命題的だろうがあまり気にしていなかったと思う。
言い換えると、非命題的な概念主義がどのようにして成立するかは、現実の言語ゲーム次第なのでなんとも言えないが、ともかくマクダウェルはさほど「転向=修正」へのこだわりは無いように思う。
村井論文の指摘にある、マクダウェルがカント直観概念を深く考え始めた理由はよくわからないが、少なくとも概念主義と経験主義の対立の忌避を、カントの純粋理性から実践理性への移行の中に見出そうという発想があったように、オレには見える。
とはいえ、マクダウェルによるカントの直観解釈が変わったことは、一つの事件として捉えられているのが興味深い。
セラーズの「色で考えること」(誤解を恐れずに言うなら絵画的芸術の捉え方)は特殊な言語ゲームと考えられるので、通常の言語ゲームと同等に扱ってよいものかどうかは判断が難しい。
この話はカントでいうと『判断力批判』に繋がっていきそうなので、これを直観的知覚の話として単独に取り上げられるのか否か。
だからこそ、敢えてそこに踏み込んでいる村井論文の意義がある、ということにして、この項を終了する。
マクダウェルの転向
メモ。
村井忠康『知覚と概念--セラーズ・マクダウェル・「描写」--』(2012)より。
(・・・)マクダウェルは最近になって、以前の命題主義的な概念主義を放棄し、非命題主義的な概念主義を唱え始めた。彼のこの転向の背景には、知覚にそもそも内容を--概念的であれ何であれ--認めないトラヴィスの過激な素朴実在論への譲歩が窺われるが、転向を促した主な要因は、『心と世界』以降彼がカント解釈に深くコミットする結果としての、カントの直観概念の再考だ。しかし、マクダウェル自身は直観と描出の関係に注意は払っておらず、そのため、彼の新たな概念主義には「非命題的」という消極的特徴づけ以上のものは与えられていないように思われる。
ピッツバーグ学派のオモシロさ
なんといってもドイツ観念論と分析哲学を、なんとなく親しいものとして扱っていることだ。
ウィルフリド・セラーズは偉大だ。
NHK杯将棋トーナメント
なんとベスト4が全員羽生世代。
若者は何をやっているのだ。
タイトルホルダーは何をやっているのだ。
・・・というか、若者が台頭してきた中で、年長者が頑張る風潮が将棋界を活性化させている。
観念論と実在論 その7
てなことを徒然考えるに、カントの二項対立という問題提起は、哲学の歴史のなかでは普通に起こっていることで、それをどのように解決するのか、あるいは解決しないのか、ということが常にテーマとなり続けている。
で、面白いことに「解決しない」という選択肢のほうが問題解決に向けての効率が良かったりする。
ということでこの話はおしまい。
観念論と実在論 その6
というわけでジョン・マクダウェルは、
「観念論と実在論を対立させるのは、あまりよくないんじゃないかなあ」
と言い始めることになった。
それをガブリエル風に言えば「観念論的な意味領域と実在論的な意味領域があって、つまり、それらは別の意味領域にあるから、一緒に考えるのは不都合が生じる」ということになる。
観念論と実在論 その5
そういえば、つい先ほどヴィトゲンシュタインに訊いてみたら、
「観念論と実在論を並べると、まるでその二つの言葉が同じ次元にあって、並立または対立しているように見えるが、そうさせているのは言葉の働きの影響にすぎないんだぜ」
と言っていた。
相変わらず気難しいヤツだ。
・・・いや冗談です。
観念論と実在論 その4
人が対象をどう把握するのか、についてカントの純粋理性批判第二版に基づけば、悟性の働き・・・つまり、今書いているような論調では、観念論的な立場の優位性を強調することになる。
ただそこに至るまでのカントの葛藤や、ヘーゲルの弁証法的運動を見ればわかるよう単純ではない。
単純ではないものを単純に語るから「チャート式」というわけだ。
観念論と実在論 その3
次に出てきたのがマルクス主義でお馴染みの唯物論で、これが観念論に対抗する有力な概念となった。
よく考えてみれば質料と形相の違い、という見方も可能だろう。
・質料=マテリー=素材=自然=唯物論=素朴実在論=経験主義
・形相=イデア=観念論=非経験主義
うーむ、かなり無理矢理な二元論だが、わかりやすさ追求のチャート式ということでご勘弁を。
観念論と実在論 その2
もともと中世では実在論(普遍実在論)に対するのは唯名論ということになっている。
普遍実在論というのは、先に概念が普遍にあって、個物はその乗り物(概念が具体的に実現化したもの)だ・・・というようなイメージ。
それに対抗した唯名論は、普遍的な概念は名前(言葉)にすぎず、存在しているものはそれぞれが個別に存在していることだけがすべてだ、と考えた。
見方によっては、≪観念→実在≫と≪観念⇔実在≫の対立と解釈できる。
そしてカント以降、観念論に対比された実在論は普遍実在論ではない・・・というような話になっていき、実在論は「素朴実在論」というような表現によるものが主流となる。
観念論と実在論 その1
観念論と実在論が、真に対立しているのかというと、少し違う。
つい先ほどヘーゲルに訊いてみたら
「オレのことを実在論者と呼ぼうが観念論者と呼ぼうが、どちらでも構わないぜ、OKOK」
と言っていた。
相変わらず、変な野郎だ。
まずカントから始めよ
まずカントから始めよ。
なぜかというと、カントの悟性と感性の関係は、のちに現れては消えていく二項対立の典型的な元祖だから。
もともとカントは悟性と感性のほかに、産出的な「構想力」という概念があったが、純粋理性批判の第二版で消え去ったのは有名な話だ。
その瞬間からカントは構築主義の教祖になった。
道徳とか倫理とか
結局純粋理性を考えていくにあたり、究極で必要となってくるのは道徳とか倫理といった「習慣」からの形成という人間の特徴から説明しようという、もう一つの方法だ。
こうして純粋理性は実践理性と深い関係をもつことになる。
マクダウェルとカント [メモ]
メモ。
マクダウェル『心と世界』より。
(・・・)もともとのカントの思想は、経験的知識が受容性と自発性の協同から生じる、という考えだ。(・・・)私たちはカントが「直観」と呼ぶものを--経験からの取入れを--概念‐外的な所与のありのままの所有として理解すべきではなく、すでに概念的な内容をもっている、ある種の出来事ないし状態として理解すべきだ。経験において、ひとは、ものがかくかくしかじかだということを、取り入れる(例えば見る)のだ。
シーソーの二つの運動 [メモ]
メモ。
マクダウェル『心と世界』より。
(・・・)デイヴィドソンの考えによれば、経験は感性に対する概念‐外的な衝撃以外の何ものでもありえない。したがって彼は、経験が理由の空間の外になければならない、と結論する。デイヴィドソンに従えば、経験は主観の信念や判断と因果的に関連しているが、信念や判断を正当化したり保証したりするような関係にはなっていない。デイヴィドソンは、「ある信念をもつ理由と見なせるものは、他の信念以外にはない(引用者註:「斉合主義」の説明)」と言うが、それで言いたかったのはとくに、経験がある信念を持つ理由とはみなせていない、ということだ。もちろん私は、こうした考え方の出発点には同意する。しかし、結論にはまったく満足していない。デイヴィドソンは、所与の神話から後退して、経験が正当化する役割をもつことを否定するが、斉合主義の結論は、摩擦のない自発性という考えのひとつののバージョンだ。(・・・)これはまさしく、私が語ってきた振動(引用者註:シーソーの動き)における、もう一つの運動だ。
危ういエッジの上
ときどき危ういエッジの上にいると感じる。
仕事なんてのはそんなものだ、と考えることもあれば、だからこそリスク管理をしないと、と思うこともある。
ボルヘス
というわけで、やはりボルヘスだ。
あるいはコルタサルでもいいんだが。
「救い」のない話の方が救われるのはなぜだろう。
暗鬱な話
暗鬱な話を読んでいると、ああ大きな物語を語る術を失ったんだな、と思う。
一応「救い」を表現することでなんとか体裁を整えているようだが、どうしても中途半端なスキゾ・ストーリーになってしまう。
SF
いまだに「これはSFだ」と蔑む傾向がある。
これは、荒唐無稽なものに対する不寛容の傾向を示しているに違いない。
「だってサイエンスフィクションなのに科学的じゃないから」とか。
おまえはエスエフをバカにしているのか、一体なにを言っているんだという気分になるが、オトナなのであまり気にしないようにしている。