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カントの未回収に関する私見 その1


 これはデフレ化されたヘーゲルの源泉にカントがいることを示している。

 極端な例、つまり「インフレ化されたヘーゲル」を想定してみよう。

 この「インフレ化されたヘーゲル」は、「OKOK、矛盾も何も全部持っていくよ、未回収なものなどないよ、全部次へ持っていくよ」という立場にいる、と考えればいい。

 すべてのヘーゲル学派は、これらインフレとデフレの間にいる、と仮定してみれば、「何を未回収とするのか」というテーマで学派を切り分けることができるだろう。

 で、ついでに言えば、今流行りの「実在論的展開」の位置も、ドイツ観念論の流れに置くことができる。

 もちろんガブリエルはシェリングを端緒として実在論的展開を考えているが、カントの物自体・・・逆に言えば「構築主義=相関主義」・・・が哲学史として重要な地位を占めていることがわかる。



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カントの未回収 [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(『思想』2019年1月号P25)より。

(・・・)そして、カントが示そうとしている同等性の二つの極のうち、客観的とされる側にこの未回収の主観性があることに対応して、未回収の客観性、すなわち、おそらくは非空間時間的な物自体が、この同等性の外部にすっかり残され、それこそが真の実在でなければならないように見えることになる。




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