存在論の存在価値
存在論と形而上学が復活しているらしい。
だからこそ、ヘーゲルの復権というわけだ。
オレはもともと存在論というか実在論について言うならば、「科学的実在論」以外の言説を重要視しない。
なぜなら存在について考えるのは無駄だから。
ハイデガーは完全に「人間」を軸とした存在しか語っていない。
つまり彼は存在そのものを語っていない。
存在そのものを語る術がないことを前提として、論を展開した。
フッサールは現象しか考えず、その「外」にある実在は無視した。
オレもその発想には納得している。
他者の受容
こうやって地味にチマチマ読んでいくと、マクダウェルの議論は、本人の意図とは別に、他者を自己の内部に受容している・・・という可能性が出てくる。
他者の受容は精神分析の議論と親和性が高くなる。
そうすると、うまくジジェクを介すれば、という条件付きになるが、ガブリエルとマクダウェルの立場は意外に近いかも知れない。
いや単なる可能性ですが。
生命と自己意識 [メモ]
メモ。
マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(同P29)より。
(・・・)この生命は「自己意識と生命の対立」の二場面目の極にあたるが、それら二つのものへと「この〈概念〉[生命]は分裂する」。この段階では、生命は対自的ではない。というのも、ここで生命は、自己意識と生命の対立のうち最初の極としての意識--これはいまや自己意識だ--にとってのものだからだ。
この段階で見られるこうした曖昧な説明から私が取り出したいのは、その構造だけだ。差異を解消し、生きた個体というかたちで現実のものとなる類としての生命は、自己意識の二重の対象をもつ第一の契機がいま現われている姿だ。そして、生命としての第一の契機の場合にも自己意識は意識であり続け、「感覚的世界の広がり全体が自己意識のために維持されている」。この段階において、この対象、あるいは二重の対象のこの契機は対自的ではない。つまり主体ではない。それは、主体にとっての、すなわち、意識というかぎりの自己意識にとっての対象としてのみ現われている。
統覚の重要性のみならず [メモ]
メモ。
マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(同P39)より。
(カントやフィヒテのように)ただ統覚の重要性から始めるのではなく、たんなる意識の経験を通じてその重要性に達する必要がある。
主観と客観のバランス [メモ]
メモ。
マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(同P26)より。
(・・・)未回収の主観性がカントの議論構築の根元に巣くっているがゆえに、カントの試みは主観的観念論以上のものにならない。これは、不当だと言われることも多いヘーゲルのカント批判だ。しかしいまや、それは正当な批判だと考えることができる。知性の自由の及ぶ範囲を拡張する眼目は、主観的なものと客観的なものとの真の釣り合いを達成することだ。そこでは、どちらが先ということもない。真の釣り合いが達成されるなら、真に客観的なものに取り組むものとして主観性を考えることができるはずだ。客観性という考えそのものがこうした構造の一部としか理解できないと考えることは、独立の実在を放棄して主観性の投影しか残さないなどということではまったくない。
TOTO
TOTOの日本武道館に妻と行った。
曲や現メンバーに対する思い入れはあまりないが、ジェフ・ポーカロに対する想いは強い。
で、その後サイモン・フィリップスやキース・カーロックがうまく対応していたことに、ジェフの遺志が繋がっているという気持ちになっていた。
今回のドラムはシャノン・フォレストで、キース・カーロックがスティーリーダンのツアーに奪われて(というか、もともとキースはスティーリーダンのサポートをしていた)以降バンドの要となっている。
彼とレニー・キャストロとのコンビも上々で、フュージョン系やスペイシーな演奏にも対応していて、何よりも現場のサウンドメイキングがしやすそうな音を出している。
今回の悪口を書くとすれば、ルカサーのギターが相変わらず冗長で、それが彼の売りということは理解しているつもりだしバンドの中心メンバーとして頑張らざるを得ないのも知っているし客もそれを求めているところがあることもなんとなくわかるにしろ、歌モノバンドとしてのセンスが問われるのではないか。
とはいえ、曲の馴染みやすさ、演奏能力の高さ、歴代メンバーに対するリスペクトが強く感じられ、ライブ会場での好感を与えてくれるバンドも珍しい。
良い意味でおカネの取れるバンドとして堪能させてもらった。
カントの未回収に関する私見 その2
ジジェクなら、それに反論してこういうだろう。
いやむしろ主観性とされる側にこそ未回収の主観、つまりエスが残され、また、未回収の客観、つまり超自我(他者A・・・しかも母親側・・・)が残され、それらが自我(主体)に対して命令し続けることで、現代的なビョーキの形を決定する。
カントの未回収に関する私見 その1
これはデフレ化されたヘーゲルの源泉にカントがいることを示している。
極端な例、つまり「インフレ化されたヘーゲル」を想定してみよう。
この「インフレ化されたヘーゲル」は、「OKOK、矛盾も何も全部持っていくよ、未回収なものなどないよ、全部次へ持っていくよ」という立場にいる、と考えればいい。
すべてのヘーゲル学派は、これらインフレとデフレの間にいる、と仮定してみれば、「何を未回収とするのか」というテーマで学派を切り分けることができるだろう。
で、ついでに言えば、今流行りの「実在論的展開」の位置も、ドイツ観念論の流れに置くことができる。
もちろんガブリエルはシェリングを端緒として実在論的展開を考えているが、カントの物自体・・・逆に言えば「構築主義=相関主義」・・・が哲学史として重要な地位を占めていることがわかる。
カントの未回収 [メモ]
メモ。
マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(『思想』2019年1月号P25)より。
(・・・)そして、カントが示そうとしている同等性の二つの極のうち、客観的とされる側にこの未回収の主観性があることに対応して、未回収の客観性、すなわち、おそらくは非空間時間的な物自体が、この同等性の外部にすっかり残され、それこそが真の実在でなければならないように見えることになる。
ヘーゲル復権 その3
ヘーゲルの恐ろしさはデフレ化されようと断片化されようとヘーゲルはヘーゲルだ、という強さを失わないことだ。
なので、ネオプラグマティズム側はさらにもっと狂気を抑え込む努力が必要だと思う。
ただ、それはますます本来のヘーゲルから遠ざかる。
しかし、それは決して悪いことではない。
思想は亡霊となってからはじめて本当の効力を発揮するから。
ヘーゲル復権 その2
とはいえ、『思想』の目玉はガブリエルだと思うんだが、オレの場合はマクダウェルのほうが興味深い。
ジジェクとガブリエルからは「デフレ化されたヘーゲル」と呼ばれているピッツバーグ学派なんだが、これはこれで興味深い。
なぜならば分析哲学の延長線上にヘーゲルを置くことを可能にしているからだ。
ヘーゲル復権 その1
岩波の雑誌『思想』2019年の1月号は「ヘーゲル復権」と題されていて、笑う。
そうすると、食いつく爺がいるはず、という意図が見え隠れする。
松本卓也と父の名
先日某所で松本卓也氏の講義を受ける。
松本氏の講義は、これで二回目だ。
前回は90分で一般向けのラカン入門という無理難題を見事クリアしていたので、つぎは何だろうと興味深く申し込んだ。
今回のテーマはラカンの精神病論で、これを理解すればラカンを偉そうに語ることができる・・・ための一歩となるだろう。
今回のキモは、神経症と精神病の違いをチャート式で説明していたことか。
ラカンは精神病と神経症の間の境界例という考え方を認めず、心の病は必ずどちらかに属するものだと考えていた。
で、その違いをどう説明するかがラカンを紹介する際の腕の見せ所となるはずなんだがさすがにわかりやすくて、オレのような歪んだ感性の素人ラカン派の心にも届いた。
あと、オイディプスの系譜、ライオス、オイディプス、アンティゴネーという3人に降りかかる悲劇が、まさに父の名の系譜になっているという説明にも、少し驚く。
こういう象徴的な説明をさりげなく混ぜ込んでいかないと、ラカンの説明不足的文章を理解できない、という、ラカン読解の対策にもなっているからだ。
また『とんかつDJアゲ太郎』もラカン理解のための偉大なテキストということも判明し、素人ラカン派としてのオレはますます混沌と混迷と混乱に陥った・・・いや冗談です。
というわけで、『創造と狂気の歴史――プラトンからドゥルーズまで』は買うつもりだ。
廉価なヘッドフォン その5
もちろんある程度音量を上げるとボロが出る。
バランスが悪く、音が荒れてしまう。
素材コストの低い分、欠点が目立つのは当たり前だ。
廉価なヘッドフォン その4
今回買ったのがスゴイのではない。
しかし、この価格で出る音ではないだろうという意識はある。
廉価なモノを買うメリットは、「ダメもと」だ。
ダメなものを買ってはいけないんだが、マニアはダメなものを買って初めてマニアを名乗れる。
その辺の感覚を理解できれば、立派なマニアだろう。
廉価なヘッドフォン その3
安い機材に期待しない。
しかし、予想以上のクオリティに出会うときがある。
そのとき、価格設定というのは酷なものだな、と感じる。
つまり、投下した資金と音質は必ずしもリンクしない。
そうでなければマニアは存在しないので、それでいいとは思うが。
廉価なヘッドフォン その2
多分、状況に応じたモノがそこにあればそれでいいはず。
金銭的な価値はどうでもいい。
だからといって、実用主義でもない。
そんな判断はオレにはできない。
だからときどき安いヘッドフォンを購入し、吟味する。
廉価なヘッドフォン その1
先日、アキバのヨドバシでヘッドフォンを買った。
ソニーの廉価品、税込実売1,600円。
ちなみにオレは7万円程度のヘッドフォンを筆頭に、いくつかメーカーを横断したヘッドフォンを複数所有するケチなオーディオ・ファンだ。
しかし、1,600円で7万円の音を凌駕しないはず、それがオーディオマニアの関心事のひとつなんだが、オレにはその感覚はない。
・・・一応書くが、購入を勧めているのではない、ご注意願います。
思想の流れ
カント→ドイツ観念論。
現象学→実存。
言語論的展開の登場。
フロイト→ラカン。
ポストモダンのうねり→ポスト構造主義。
相関(構築)主義の否定→実在論的展開。
これらの断片的な展開がそれぞれ含蓄的に絡み合いながら蠢いていることを理解できると、思想史はオモシロくなる。
さらに言うと、勝手に時代を無視して結び付けていくともっとオモシロいに違いない。
論理的には多少(どころではない程)逸脱するけど。
ことばと意味
J・M・エディ 『ことばと意味―言語の現象学』 (1980年) (岩波現代選書) を断片的に読み始める。
なんと滝浦静雄先生の翻訳だぜ。
フッサールとメルロポンティの思想の中から言語哲学的な要素を強調して書いてみました的な本だ。
なかなかオモシロい。
当時としては斬新さがあるが、現代の視点からは限界が垣間見える。
とはいえ現象学の発想は有効だと思う。
落ちたもんだぜロックスター
昔、アナーキーというバンドがあった。
メジャーデビューは1980年だったか。
「落ちたもんだぜロックスター、今じゃロックも歌謡曲、
愛だ恋だとさえずって、今でもジジイの猿真似か」
いや素晴らしい歌詞だと思う。
で、だからこそ歌謡曲も悪くない、と思った。
表現の訴求力を考えるに、表現する側の態度だけではなく、受け取る側の感性も問われている。
なので、ジャンルで縛るのはもったいない。
今まで到達しない地点を目指すのなら、過去にやっていないことを試すのも大切だ。
冬の花
宮本ソロの話。
これは晩年の唄だ。
もちろん彼は昔から晩年を馬鹿にしながら描いていたが、いよいよ自分がその境地を意識する年齢になったということだろう。
生きることの悲しみを、いつものように抽象的に描いていて、そこは聴き手の感性に委ねている。
表現者としての晩年を迎えるにあたって、それでも、もがき苦しみながら前に進もうという決意表明。
静寂に生きようとするなかでの狂気との葛藤・・・そして、ひっそりと咲き、ひっそりと散る。
総合格闘技 その8
そう考えていくと、結局基本は個人ジム、個人教室の形で生計を維持していくのが無難ということか。
強力な中心人物がいない限り、徒党を組むのが苦手なのは、格闘家共通の性質のような気がする。
というわけで、オレが存在しないと思っている、総合格闘技の話はこれでおしまい。
総合格闘技 その7
全然関係ないが、その昔立ち技系格闘技の世界で一世を風靡していた極真会館が分裂してまさにバラバラに細分化されてしまった。
それくらい分裂前は団体として圧倒的だったということを示す。
総合格闘技 その6
総合格闘技はエンタメではなく、競技だ、と割り切った時点で、オレは総合格闘技を存在しないことにした。
つまり、オレはゲームではなく闘いが見たかった、ということなのかも。
そんなオレ自身の分析などどうでもいいが。
総合格闘技 その5
総合格闘技が廃れた理由に、ポイント制がある・・・という意見があるらしい。
世界へ広げるためのルール作りが、競技の魅力を消していくというのはよくある話だ。
柔道はポイント制になったが、技ありや一本の概念は残っている。
総合格闘技にもギブアップやレフェリーストップ、ノックアウトがあるにしても・・・判定ポイント狙いの闘いの勝率が高くなっている・・・ということか。
総合格闘技 その4
という状況なので、「ジョシカク」などというものは、もっと存在しない。
いい選手が少なからずいたのに、もったいない。
総合格闘技 その3
テニスは身体に悪い。
が、総合格闘技ほどではない。
・・・いやこれは検証してませんので、お見逃しを。
総合格闘技 その2
総合格闘技は身体に悪い。
つまり、試合をすると身体を壊す可能性が高い。
そういうルールだから仕方がないとも言える。
柔術ルールは相対的に身体に優しいと言えるが、興行的に映えないという欠点がある。