青野流
横歩取り青野流の定跡を少し整理しておこうと思ったが、変化が複雑すぎて諦めることにした。
局面の評価が時代によって変わっている可能性もある。
というか、逆に有力な変化が多すぎてよくわからない、という意味もありそうだ。
科学の位置
科学の位置づけは難しい。
日常生活の背後に科学が前提として鎮座するケースが多い。
とすると、日常生活には直接出てくるわけではない。
究極的な場面で「科学的言説」が登場する可能性がある。
そこで初めて、科学の信憑性が問われる。
ボブ・ウェルチ その2
何が好きなのか。
きっとクールでポップでセンス一発勝負だから。
合う合わないがあるので、他人には勧めない。
ボブ・ウェルチ その1
オレはボブ・ウェルチが好きだ。
全部聴いているわけではないけど。
しかし、マック時代のは日常的に聴いているし。
パリスも普通に聴くし。
ソロもフレンチ・キス、スリー・ハーツは当たり前に聴くし。
てゆーか、イマジナリー・フールとかアイ・コンタクトも買ったし・・・いやいやこれらはなんだか時代に迎合しているような気もするけど、嫌いではない。
もしかすると数年たったらコンプリートしているような気もするけど、入手困難なアルバムがあったりするわけで、すべてを集める気はないというか、そういう熱意はまったくない。
私的言語
ヴィトゲンシュタインの私的言語論が、いったい何を想定しているのか、当時の時代背景を考慮して推測することは可能だ。
というか、オレはなんとなく・・・いや確信している。
しかし、その結論はどうでもいいのがこの話のミソだ。
弁証法
で、非対称性を飲み込んで一緒に考えてしまうという強引な思考方法が、ヘーゲルの弁証法だとオレは思っている。
非対称性と対称性の違いを含めて全部を次の思考へ持っていこうという、大胆な思考がなければ、歴史を語れない・・・という時代だった。
言葉の効果
言葉とは差異性だ。
違いがあるから言葉が違ってくる。
そして、差異を認めながらあるグループに含めれば「分類」し、並列化される。
そうするとなんだか対称性があるような錯覚を生む。
言葉の対称性
単語を並べていくと、それらは並列的に見え、何となく対称的なもののように感じる。
しかし、「今、ここ」という時間と場所、「私」という特殊な経験をする主体、私たちが生きている間経験できない「死」とそれに対する「生」、人間生活における「信じる」と「疑う」の特殊な関係、等々を考えていくと、世の中には非対称的な関係に満ち溢れている。
おそらく対称性というのは言葉の効果だろう。
絶対的
で、オレの考えるヘーゲルの「絶対」は、言葉通りの「絶対的」ではない。
いろんな矛盾を抱えながら思考が流転していくので、「統一制御された絶対」ではなく、その場その場で(「歴史」の中で)都度対応しているような「絶対」のイメージだ。
相対的
ポストモダンは、表層的で流動的で相対的で構築主義的だった。
そんなポストモダンに対して、「実在論的思考が不足している」と指摘するのは、正しくないような気がする。
そう言いたくなる気持ちは理解できるが。
日常
日常では科学が前面に出てくる機会は意外と少ない。
ただ、その背景として科学的知識が前提になっていることがある。
つまり、科学が全面的に出るような日常があったり、宗教的なものが全面的に出るような日常があったりする。
科学は日常の中の一つの要素・・・ある意味重要な要素だが・・・に過ぎない。
殺人
殺人は明らかに罪だ。
戦争で人を殺すのは、罪にならない。
死刑を執行するのは国で、国は罪にならない。
さて、上記についてあなたはどう考えますか。
科学をどこまで信用するか
個人的に科学は信用できるが、だからといって絶対視はしない。
つまり、絶対的ではなく、相対的に信用できる、というワケだ。
メカラウロコ29 その8
したがって、このバンドに期待されている収益額は他のバンドより高い。
・・・というような話になっていくと、また別次元の話になるのでとりあえずやめておこう。
メカラウロコ29 その7
このバンドの再結成はレコード会社を横断するプロジェクトとして実行された。
なので、"super"という余計な単語が追記されている。
メカラウロコ29 その6
あと、機材関係の進化による音質の安定という圧倒的な違いが大きい。
つまり、このバンドの休止期間には、録音現場での格段の技術の進歩があった。
それは単純に言えば、現場のアナログからデジタルへの移行という意味が大きい。
とはいえ、このバンドの本質はアナログにあったりするわけで、未だにその良さを求めて海外での録音をしてしまうのは仕方がない。
録音部屋の音響特性というのを、ルーム・シミュレーター補正で行うことの虚しさを理解するのはなかなか難しいからだ。
音楽というのは感性によって経済が成り立つビジネスなので、それを理解できないと本当の意味での成功は覚束ない。
メカラウロコ29 その5
もともとベースが走りやすいバンドだったと記憶しているが、再集結後は年齢とともにそれなりに安定していた。
メカラウロコ29 その4
メンバーの演奏、とくにリズム面、グルーヴが良くなっていることについてはここでも、触れたような気がする。
それはベテランの域に達してきたということでもある。
メカラウロコ29 その3
昔の演奏に比べれば圧倒的にうまくなっている。
これは主に吉井のヴォーカル・スタイルの変遷がそのイメージを代表している。
まるでこのバンドの歴代ヴォーカルが数人いるかのように、歌い方が変わっている。
メカラウロコ29 その2
このバンドは世間との戦い、あるいは自分たちのプライドとの戦いに悪戦苦闘することによって音を出していく。
主にそれを背負っているのが吉井和哉だ。
このバンドの苦闘の歴史は吉井和哉の苦闘の歴史でもあり、それが解放されそうで、実はされないまま、継続していたのが吉井のソロ活動だったように感じる。
メカラウロコ29 その1
12/28は妻と日本武道館で、メカラウロコ29に参戦。
メカラというのは the yellow monkey というバンドの、過去の日の当たらない楽曲に命を与えるという主旨だったと思うんだが、今回は最新アルバム・・・といっても19年前だ・・・のナンバーが多かった。
つまり、逆に言うと、そのアルバムの曲が、ライブであまり演奏されなかったということが証明される。
解散前のアルバムだから、他のアルバムと違い、メンバーやファンの思い入れがいずれも負の方向に振られていることが多い、という事情もあるかと推測される。
というような、些細な話はどうでもいい。