理論や思考傾向
精神分析の欠点は、精神分析の理論や思考傾向が患者に対して(もちろん分析家を通じて)強い影響を与えてしまうことだ。
これは患者の自由連想の強い妨げになるはずだ。
ただし、精神分析の理論にとっては、それは幸運の事態を招くのかもしれない。
そういう意味で、精神分析は科学ではない。
もしかすると、科学にもそういう傾向は無きにしもあらずだと思われる。
精神分析
オレが精神分析を学ぶのは、ほかに狂気について、学ぶ方法がないからだ。
脳神経を分析してビョーキの状況がわかるのなら、それはそれでいい。
残念ながら、現在は狂気を知るには、患者の語る言語を通じて心の内部に入り込むしかないと思う。
そこには何らかの共通性、法則性がある。
それがなければ、精神分析の意味などない。
クワインについて思うこと
ほぼほぼ同意することが多い。
だがしかし、ブランダム、マクダウェル、スティッチ等に感じるのと同様の違和感がある。
メイヤスーやガブリエルに感じるのも同様の違和感だ。
オレたちが学ぶのは結論ではなく、考察や分析の方法だ。
それこそが哲学の神髄で、結論は単なる結果に過ぎない。
レッツノート 続き
壊れたのもレッツノート。
品番はJ10U。
小さくてキビキビ働いて結構好きだった。
小さいけど「太って」いたし、さらにカバーがついていた。
女性ターゲットのシリーズだったと記憶している。
家庭内モバイルとして活躍させていたので、新しい機種も同様の意図で使用。
一番使うソフトが「ワードパッド」だというのは内緒です。
レッツノート
買ったのはレッツノートの法人モデルSZ(ドライブレス)。
軽い。
初めての 849g はなかなか感動モノだ。
キーボードは定番でこれに慣れると浮気しにくいかも。
使い勝手は・・・windows10に慣れてから。
というわけで、欠点が少ない。
あるとすれば画像解像度と価格。
個人的には画像解像度などどうでもいいんだが、価格は勘弁して欲しいレベル。
型落ちで少し安くなったが、それでも高い。
とはいえ、高級オモチャだから仕方ない。
継続して次の機種購入のための積み立てを今から考えよう。
古いパソコン
古いパソコンは6年半使用した。
そして突然Windowsが立ち上がらなくなった。
ハードディスクの平均寿命が5年程度とのことなので、毎日使用していれば壊れてもおかしくない年数レベルか。
新しいモノ
新しいパソコンはさらに軽い。
まさにモバイルだ。
ビジネス仕様なのに、オモチャ度がアップしている。
昔は、SSDは突然壊れるイメージがあった。
今はそうでもないのかも。
メール
メール設定が出来ない。
ネットで調べてみると、皆さん苦労されているようで、いろいろ出てくる。
そういう意味では、インターネットの情報は助かる。
パソコンが壊れた
パソコンが壊れた。
古いパソコンを出して代用しようとする。
久しぶりにXPの画面を見た。
インターネットにはセキュリティの関係でつながらない。
なかなか不便だ。
現象と実在 [メモ]
メモ。
この観点からすれば、例えば物体的対象の存在をめぐって、「物体は認識者と独立に存在する」と主張する「実在論者」と、「物体はセンス・データからの構成物に過ぎない」とする「現象主義者」との対立は、「物-語」を原初記号とするような言語を採用するか、「センス・データ-語」を使った定義によって導入されるような言語を採用するか、という、言語の任意の選択の問題に過ぎない(・・・・)
(丹治信治『クワイン』より)
久しぶりに言語論的転回のフィールドを楽しんでいる。
彷徨った後
森を彷徨いながら思ったのは、前提の知識が少し不足していることだ。
なので、前提方面を勉強することにした。
森の入口
出口にたどりついたとき、オレは森の入口に戻る。
一つの理由は、最初は謎が多かったので、後から「事後的」に理解できる可能性を模索するためだ。
しかし、それは大した話ではなく、森がそのようにオレたちに対して存在しているならば、その存在のあり方に応えてやろうというだけのことだ。
森の出口
森の出口だと、終わりだという思いが出てきて、なんとなく森を制覇した気分になる。
しかし、出口では情報は少ない。
単なる結論に過ぎない。
森を探索するときに重要なのはその過程で、結論などおまけみたいなものだ。
ところが、世の人は結論があればそれでいいということが多い。
それは単なる知識で、理解力ではない。
バンプ
受け身を取ること、バンプとも言うが、それは非常に大切だ。
プロレスを観ていると受け身の凄さが、その他の格闘技との違いを示す。
で、人間関係でも受け身は大切だという話をしようと思ったが、どうでもいいか。
ネットでの議論
ネットで誰と誰が議論しようとどうでもいいんだが、その内容の99%はつまらないし、しかも展開が不毛で読むだけムダだと感じてしまう。
それはなぜかというと、共感力のない議論は意味がないからだ。
振り返ってみれば、オレの場合、議論というのは落としどころを探して、どう行動するか決めることが多いようだ。
ところが共感力がない・・・相手に対する理解力を発揮しない・・・となると、一方的に相手の話の表面だけを取り上げて反論するという形式になっており、・・・いやもっと簡単に言うと、両者が合意して行動のための結論が出ない方向に話を進めているような展開になる。
いやだからどうだということもない。
たぶんある程度ストレス解消になるのかなと推測する。
本人たちか楽しんでやることに文句を言うのは間違っている。
が、個人的には時間の無駄だと考えるので、読まないし、関わらない。
思想の森 その2
彷徨えば、つまり実際に歩いてみれば、その森がどのような構造になっているか、自ずと見えてくる。
そして、一度彷徨ってしまえば、さらにそれが見えやすくなる。
思想の森 その1
森といってもハイデガーではないけれど。
思想の森の中で彷徨っている。
これはなかなか心地よい出来事だ。