図式とゾンビ
ラカンがマテームやトポロジーやボロメオの輪で遊んでいるときに、たぶん彼は、そこに父の名が失われていることを経験し、そしてその恥ずべき代替を見出したはずだ。
つーか、そうでなくても構わないが、そう考えた方が現代ラカン派にとって都合がいい。
鉄の秩序は排除型の秩序で、オレたちが理想だと思っている包摂型の秩序とは程遠い。
だからこそ、それは普通精神病と直結していくんだが、そうは言っても、「で、それが何か?」という話だ。
排除された父の名の現実界での回帰・・・などというものが、オレたちを支配しているとすれば、それは既にシフトチェンジした思考形態で、その過去の一部もしくはすべてはゴミ箱へと捨てなければならない。
そういう文脈において、ラカンは死んだ、と言うべきなのか否か。
ミレールたちはいまだ参照点として70年代へと遡っているが、死んでいるにもかかわらず「アンデッド」という無限判断の存在として認識しているようなものだ。
つまり、ゾンビとともに、ゾンビとして現代ラカン派は蠢いている。
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