幻の女その3
ここで考えなければならないのは「コギト・エルゴ・スム」というデカルトの定式だ。
その定式に対して、考える主体と存在する主体は違う・・・と反論するのがよくあるパターンなんだが、実は前提がある。
カントは物自体を認識できないのは、認識の有限性にあると考えた。
メイヤスーの「有限性の後に」の「有限性」もこの「認識の有限性」を示している。
で、ポスト・カント的観念論では、この「認識の有限性」から「存在自体の隙間」への移行・・・・というか、パララックス的な変更によって「体系」を構築する。
ということから理解できるように、不完全や矛盾などを内部に放置したまま体系化していくという、実に「純粋」とは程遠い思考方法がドイツ観念論の正体だったりする。
したがって考える主体の存在について考えることは、非常に曖昧な経過をたどる。
つまり、ドイツ観念論において、考える主体と存在する主体を同じと考えることと、別だと考えることは、同時に為されなければならない。
・・・そして、そういう意味でのみ、オレはドイツ観念論を支持している。
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