「大衆」運動の特徴 [全体主義]
とりあえず、引用しよう。
「おれたちは文学者の反核運動をはじめ、今度の盛り上がった運動を発起しているものが旧左翼、旧式の進歩派、高度管理社会の現象と現状にたいする良識的で古めかしい清潔主義的な反動倫理、それらの反撥の連合体ということに危惧の念をもたざるをえない。これは大衆行動には主導者の意志や思惑を超えた行き過ぎや、逸脱がありうるなどという次元の問題ではない。主導者自体が、左翼性、進歩性のシンボルの内部にもっている保守反動を発現しているのだ。さらに一歩を踏み込んで、すこし極論すると、身障、被爆、被差別を至上物に押し上げたマゾヒックな、病的な熱気をもった倫理で、世界の全体を塗り籠めようとする盲目の志向性や、途方もない異様な雰囲気を感じる。」
吉本隆明「情況への発言」(『試行』1982年9月)より。
これは30年以上前に発表された、左翼的思想家の言葉だ。そして、オレが思うに、今でもまったく同じ、異様な雰囲気を感じる。まるで「平和運動の全体主義」とでも言えるような。いや、右も左も関係なく。もしかすると、もともと「大衆運動」とは、そういう性質のものかもしれない、とすら思う。
この号の「情況への発言」は全編が興味深いので、手にする機会があれば熟読していただきたい。書籍としてもまとめられているようだし。
2015-12-13 06:00
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