日本の主体性 [日本の症状と主体性]
神経症にならないための道筋をオレたちは知っている。それは欲望を諦めないことによって、主体を支え続けることだ。
日本の神経症を治すために主体を支えることとは、「日本とはなにか」に対する回答を持つことだろう。
「反米」や「反共」ではない、「日本らしさ」の探求だ。なぜかサッカーのオシムも似たようなことを言っていた。
それをナショナリズムの台頭と断言するのは簡単だが、単に治療のための主体性の確立と考えてみてはどうだろう。
そもそも神経症としての日本の歴史では、護憲運動はナショナリズムと親和性が高かったのだから。さらに「護憲派≒ナショナリズム」と「非武装中立」が同値だったのだから。
ファルス享楽的な「反米」というノイズと、他者享楽的な「反共」というノイズを取りはらうことで、やっと日本の主体性を考える大元が見えてくる。第9条を冷静に考える道筋が見えてくる。もちろん「親米」と「親共」も同様に性質の悪いノイズだが、日本の主体性を脅かすほどの脅威ではない。つまり、「アンチ」思考こそが主体の自立を妨げている。
というわけで、オレの戯言(ざれごと)、机上の空論はここまで。オレの目的は、「症状」によって見えなくなっている「日本の思想」の本質的枠組を、歴史を振り返ることによってクリアにすることだけで、「何を欲望するのか」や「日本とは何か」の回答は各自勝手に出せばいい。ちなみにオレは日和見主義者だから、その都度結論が変わる。
・・・上のようにつらつら考えてきて、なんとなく見えてきた「ブレない思想の危険性」については、また別に書く機会があるかも。いや「逃走論」が正しいという話ではないです、念のため。
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